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和田商事株式会社

セルフ雑記帳

和田 信治

vol.624『1991年』

社会・国際

2016-09-06

 いまから25年前の1991年はその後の世界をかたち作った二つの大きな事件が起きた年として記憶されている。まずは,前年8月にサダム・フセイン率いるイラクがクウェートに侵攻したことをきっかけに,国連が多国籍軍の派遣を決定,1月17日にイラクを空爆し,湾岸戦争がはじまった。クウェートは約1ヶ月で解放されたが,冷戦終結後,唯一の超大国となった米国は,これを機に,複雑怪奇な中東情勢に引きずり込まれ,「9.11」を経て,おびただしい犠牲をはらうこととなった。当時,1バレル20㌦台だった原油価格は40㌦台に高騰,バブル景気に浮かれていた日本経済は直撃を受け,その後長い低迷期を迎えることになった。

 もう一つの事件は,8月19日にソヴィエト連邦で勃発した軍事クーデター。民主化を進めるゴルバチョフ大統領の改革に危機感を抱いたヤナーエフ副大統領ら守旧派が起こしたものだったが,後にロシア大統領となるボリス・エリツィンを中心とした国民の抵抗により失敗に終わる。しかし,これによりゴルバチョフ大統領の指導力は急速に低下し,12月に大統領は辞任,ソヴィエト連邦は崩壊するに至った。それまで世界最大の産油国だったソ連の原油生産量は大幅に低下するが,21世紀に入り復活。だが,いままた原油市場の低迷によって経済危機に直面している。

 広島東洋カープが優勝したのは,そんな激動の年であった。「ミスター・赤ヘル」,山本浩二監督率いるカープは,5年ぶり6度目のセ・リーグ制覇を果たした。その原動力となったのは,カープ史上最強と誉れ高い投手陣だった。2年目の佐々岡真司が最多勝利と最優秀防御率,川口和久が最多奪三振,北別府学が最高勝率,大野豊が最優秀救援と,投手部門は赤一色に。日本シリーズでは西武ライオンズと対戦,川口が4試合に奮投するなどし先に王手を掛けたものの,最終的には3勝4敗で敗退した。この年以降,カープは日本経済同様,そして日本のGS業界の轍を辿るかのようにして,長い長い低迷期を過ごすことになったのである。

 そのカープが,今年は遂に優勝した。まだ,このコラムを書いている時点ではマジック「4」だが,優勝したも同然なので完了形で記す。カープファンのみなさま,おめでとうございます。この数年,ずっと優勝候補に挙げられながら期待を裏切ってきたが,今年はぶっちぎりの強さだった。大エース前田健太が抜けてしまったので,これで当分カープは優勝できんなと思っていたのに,前田の穴を“全員野球”でカバー,遂に悲願を成し遂げた。恐らくMVPは,現在打点トップの新井貴浩あたりだろうが,私は断然,菊池亮介を推す。現在,最多安打を放っているが,それよりもあの守備力!カープ投手陣は現在防御率でリーグトップだが,それは菊池がセカンドを守っているおかげだ。間違いなく21世紀最高の二塁手である。

 それにしても,25年前といえばまだGS業界には「三菱」や「共同」の元売マークがあり,「エッソ」,「モービル」,「ゼネラル」も,それぞれ独自色を出して熾烈なシェア争いを繰り広げていた。「日本石油」と「エッソ石油」が同じ会社になるなんて,だれも想像していなかったのだ。当時GSの件数は約5万9千ヶ所で,依然増加傾向にあった。あのころは,まだGS業界も,販促費を湯水のように使って,元売と二人三脚で成長してゆくという醍醐味を味わっていたように思う。“ローコスト・セルフ”なんて唱えても,だれも相手にしてくれない時代だった。

 湾岸戦争もソ連崩壊も,世界が民主主義と資本経済によってより安定化してゆく道を開くさきがけだと多くの人たちは信じていたが,結果はまるで逆になってしまった。25年間のあいだに,世界も業界も,次々に問題が生じ,思い煩いの絶えない不穏な社会になってしまったように思う。25年前の“風景”を思い浮かべていたら,少々感傷的な気分になった。感傷的といえば,広島ファンにとって,25年前の4月14日の巨人戦は,忘れえぬ試合に違いない。あの「炎のストッパー」,津田恒美の最後の登板試合だからである。あれから25年の歳月が流れた…。

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