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和田商事株式会社

セルフ雑記帳

和田 信治

vol.986『支援疲れ』

オピニオン

2024-02-05

 『EU(欧州連合)は1日,臨時の首脳会議を開き,500億ユーロ(約8兆円)のウクライナへの資金支援で合意した。ロシアの侵攻を受けるウクライナの反攻や復興を後押しする。23年12月の首脳会議ではハンガリーの反対で決められなかった。今回は同国が最終的に譲歩したようで,加盟全27カ国が合意した。EU全体で中期的な援助を確約することで,域内外で持ち上がる「支援疲れ」の懸念を払拭する狙いもある』─2月1日付「日本経済新聞」。

 今月24日で2年になるロシア軍のウクライナ侵攻。ウクライナは,去年6月に大規模な反転攻勢に乗り出したが,戦闘はこう着状態に陥り,東部ではロシア軍の激しい攻勢にさらされている。また,プーチン大統領は先月,ロシア軍の兵士を17万人増やす大統領令に署名するなど,戦闘の長期化をにらんで兵力を強化する動きを見せている。いずれにせよ,血なまぐさい戦争がまだ続くことは間違いない。

 ロシアやウクライナに地理的に近いバルト諸国やポーランドなどにとっては,自国の安全保障がかかっている。仮にウクライナが倒れるようなことがあれば,ロシアの脅威が自らの国境に迫るわけで,西側諸国は「ウクライナの戦いは我々の戦いだ」と連帯を示してきた。だが,負担が増大するなかで,いつまでも支援し続けるのは難しい,という本音との葛藤が生じてきて,そろそろ和平交渉を始めて,戦争を終わらせてくれないかという声が欧米で高まってきている。おまけに,ここにきて中東では世界大戦を引き起こしかねない情勢となり,ガザでの惨状が連日報じられるに及んで,一体,何が正義で,何が悪なのかわからなくなってきている。

 そんなわけで,「支援疲れ」とは,単に経済的な負担が増すということではなく,感情的にも道徳的にもへとへとになってゆくことなのだと思う。戦争そのものを“支援”しているのは為政者たちだが,市井の人々は同情心から,傷つき,飢え乾いている人々に,本来の支援を行いたいと思っている。例えば,発生から早くも1か月が経った能登半島地震の被災者に対して,全国から寄付や贈りもの,現地での様々なボランティア活動の申し出が寄せられている。

 災害であれ,戦争であれ,家族や家を失った人たちを少しでも励まし,慰めたいという気持ちはだれもが抱いている。だが,その気持ちも,時経つうちに日常生活に忙殺されてしまう。それどころか,悲惨な人たちへの共感がストレスとなってしまい,忘れたいと思うようにさえなる。とりわけ使命感の強い人や感受性の強い人は,情報過多の現代において“疲れ”を感じやすいのだという。実際,精神科医や心理学者は,戦争報道やSNSを過度に視聴すると,疲労が抜けにくくなったり,怒りっぽくなったり,無気力になったりすると指摘している。

 無論,大変な目に遭っている人を見て,無関心を装うようなことはしたくないが,世の中にこんなに悲惨な出来事があふれていると,自分ひとりが何かをしたところで何の意味もない,と諦めてしまう人も少なくないのでは。そのようにして「支援疲れ」が人々の心を徐々に蝕んでいるのかもしれない。

 そもそも「支援」が必要な人たちは,戦地や被災地に限られるわけではない。老齢の親や障害を持つ家族の世話をする人もまた支援者である。子育てなんて,もっとも身近な,しかし重要な支援活動といえる。そして,彼らの多くは,身体的な疲労だけでなく,経済的にも,精神的にも疲れてしまい,助けを必要としている。支援者にも支援が必要なのだ。戦争を支援するために費やす膨大な費用と比べれば,それらの人たちへの支援ははるかに少ないし,苦労や悩みは見過ごされがちだ。“人間は元来戦争をする生きものだ”という人もいるけれど,もしそれが本当なら,この世の一切の思いやりや憐れみ,気遣いは無意味ということになってしまうではないか。戦争をしている者たちが疲れ果ててやめてしまうのが一番よいのだが···。

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