セルフ給油システム・周辺機器 販売・施工
和田商事株式会社

セルフ雑記帳

和田 信治

vol.637『教え,鍛え,育てる』

エンタメ・スポーツ

2016-12-05

 12月4日,荒川 博 逝く。享年86歳。いわずと知れた,王 貞治の師匠,一本足打法の生みの親である。1954年,墨田区の公園で少年野球の試合をしていた中学2年生の王少年に,自転車で通りかかった男性が声をかける。「坊や,なんで右で打ってるの?」。王が兄たちの真似をしているだけだと答えると,「じゃあ,次は左で打ってごらん」。言われたとおり左で打つと,それまで2打席凡退だった王は大きな二塁打を打った。その“おじさん”こそが,早実,早大を経て毎日オリオンズに入団した2年目の外野手,荒川だった。

 時は流れ,1962年。甲子園で大活躍し,1959年に大きな期待を背に巨人に入団した王だったが,3年間で放ったヒットは246本,通算打率は.246。ホームランはわずか37本だった。王を長嶋茂雄と並ぶ強打者に育てたいと考えていた監督・川上哲治に,「王がなかなか育ってこない。どこかにいいコーチはおらんか?」と相談された選手兼コーチの広岡達郎は,早大の先輩で,前年に引退したばかりの荒川を推薦した。

 事実上,“王専属”打撃コーチに就任した荒川は,王に「3年間オレの言う事を聞け。10年メシが食えるようにしてやる」と告げ,猛特訓を開始する。右足のステップのタイミングと上半身の始動がばらばらで,速球には差し込まれ,変化球は待ちきれない状態だった王の打撃フォームを矯正すべく荒川が取り入れたのが一本足打法だった。4年目のシーズンに入っても低迷を続ける王に業を煮やした投手コーチ・別所毅彦から,「王が打てないから勝てない」とコーチ会議で面罵された荒川は,「ホームランならいつでも打たせてみせる」と大見得を切り,翌日の試合前に,「きょうから一本足で行け」と王に命じる。

 1962年7月1日,川崎球場での大洋戦,1番打者の王は5打数3安打1ホーマー4打点の活躍で遂に覚醒する。王は当時を振り返り,「二本足ではありえなかった勢いで打球が飛んだ」と述懐している。それ以降,王は“かかし打法”などとからかわれる中ホームランを量産,初のホームラン王のタイトルを手にする。その後の王の活躍はご存知のとおり。荒川の指導を受けて3年目の1964年,王は自己最多の55ホーマーを放つ。その年のオフ,「3年過ぎたし,もう好きなようにしろ」と荒川に告げられるが,今度は王が「いままで以上にしごいてください」と懇願し,1970年に荒川が退団するまで凄まじい練習が連日続いたという。

 企業においても,先輩と後輩,上司と部下の関係の中から「師弟の絆」が生まれることがある。職場で“いまの自分があるのはあの人のおかげ”といえる人に出会えるのは幸せなことだ。教えた側も,そう言ってくれる人がいることは,この上ない喜びだろう。ただ,昨今では,師匠の課す猛特訓に歯を食いしばって耐えながら弟子が成長してゆくといったスポ魂的師弟愛は,スポーツの世界においてさえ廃れつつあるようだ。鉄拳制裁などもってのほか。“そんなことも分からないのか”なんて禁句。噛んで含むようにして,辛抱強く教え諭すことが肝要なのだ。

 もちろん,叱責は愛情の裏返しでもある。難しい仕事を任された時,それは試練であると同時に期待の表れと言えるかもしれない。だが,ロクに信頼関係も築いていないうちから部下をしごいたら,それはパワハラ。上司が『取り組んだら放すな,殺されても放すな,目的完遂までは』(「電通鬼十訓」より) なんて時代錯誤の世迷いごとを言うような人物だったら,運が悪かったと諦めるか,職場を代えるしかない。もっとも,年を追う毎に活力が衰えているいまの石油業界では,そんな狂気じみた激を飛ばす“鬼軍曹”はいないだろう。

 人を教え,育てるということは容易なことではない。しかし,経営者が,目の前の仕事にかまけて人材育成を怠るなら,とりあえず走れるからとオイル交換をせずに走り続ける車と同様,近い将来深刻な問題を抱えることになるだろう。人を育成するどころか,確保さえままならないいまのGS業界は,この面でもっと危機意識を持つべきだと思うのだが…。

コラム一覧へ戻る

ページトップへ