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和田商事株式会社

セルフ雑記帳

和田 信治

vol.977『壱万円札のはなし』

政治・経済

2023-11-27

 1958年12月1日は,最高額面の日本銀行券,壱万円札が発行された日である。敗戦後のインフレにより,国民の日常で使用される通貨単位が「銭」から「円」へと切り替わり,「万」の位が商取引で頻繁に用いられるようになったことから,「満」を持して投入された。当時の大卒初任給が1万3千円程度で,そんな高額紙幣が本当に必要なのかという懐疑や,小銭を扱う業種では釣銭への対応が大変なのではという不安もあったが,時を同じくして高度経済成長が始まり,それ以後順調に流通量が増えていった。

 初代壱万円札の肖像は聖徳太子。1930年から発行が始まった,「乙百円券」に初めて採用されて以来,戦前2回,戦後5回も採用され,まさに日本のお札の“顔”として,長年国民に親しまれた。もっとも子供の私には,聖徳太子は“五千円札と壱万円札の人”という近づき難いイメージがあったが。ちなみに,小売店や飲食店では,壱万円札で支払うと,店員が「一万円入ります」と声出しすることがあるが,これは80年代半ばまで,壱万円札と五千円札がいずれも聖徳太子であったことから,釣り銭ミスを防ぐために生まれた習慣なんだとか。

 聖徳太子はいまから千四百年以上も前の貴族政治家で,冠位十二階や十七条憲法などを制定して国家体制を整えたり,天皇による中央集権を進めたり,遣隋使の派遣により大陸文化を採り入れたりと,内外に多くの業績を残したという。なお,戦後GHQ(連合国最高司令部)は,軍国主義払拭のために紙幣の肖像を刷新しようとしたが,当時の一萬田 日銀総裁が,「聖徳太子は『和を以って貴しとなす』と述べるなど,軍国主義者どころか平和主義者の代表である」と主張して,その存続を認めさせたのだそうだ。

 そんな偉人も飽きられたのか,1984年に五千円札は新渡戸稲造に,壱万円札は福沢諭吉に交代させられた。そして来年度から,またまた新紙幣が発行される。新たな壱万円札を飾るのは渋沢栄一。「日本の資本主義の父」と呼ばれる人物で,1840年に現在の埼玉県の農民の子として生まれ,武士に取り立てられ,幕臣になり,明治維新後は大蔵省の役人になり,さらにそこから実業界に身を転じて,日本初の銀行である第一国立銀行(現・みずほ銀行)を設立,91歳で亡くなるまで,約500もの会社の設立・経営に関わったとされている。まるで“出世すごろく”のような人生を歩んだ人だ。

 帝国データバンクが,渋沢が設立・運営に携わった企業を母体として合併・被合併などの変遷を繰り返し,現在も事業を継続している企業を調査したところ,167社を数え,そのうち上場企業は99社。売上高ランクで最も高いのはENEOS。『渋沢栄一記念財団』の資料によれば,越後長岡地方の石油汲取販売を目的に1896年に設立された北越石油という会社に渋沢は発起人の一人として名を連ねている。当時,長岡には油田があり,石油事業者が乱立していたが,1901年に渋沢の勧告で統合したあと,尼瀬油田に端を発した日本石油と合併して今日に至っているというわけ。

 とはいえ,渋沢を「日本の資本主義の父」と呼ぶのは,いささか過大評価ではないかとの意見もある。みずほ銀行や日本製紙や東京ガスなど,渋沢が設立を主導した会社はともかく,ENEOSをはじめ,大半の会社は,渋沢が少額の出資を引き受けたり,形ばかり監査役や社外取締役に就任して名前を貸したにすぎないという。つまり,渋沢が会社を創ったというより,明治・大正の起業家たちが,資金と信用力を得るために渋沢御大を頼ったというのが実態なのであって,「日本の資本主義のパトロン」と呼ぶほうがふさわしいのかもしれない。無論,それはそれでりっぱなことなんだけど。

 キャッシュレス化が進み,100米㌦紙幣や200ユーロ紙幣などの高額紙幣の廃止論が世界では高まっている中で,日本では紙幣流通総枚数に占める壱万円札の割合は89㌫(2018年現在)と突出しており,先進国では他に例がないとのことで,この一事を取っても,日本がいかにキャッシュレス化が進んでいないかがわかる。だがそれは,日本の中央銀行券の信用性がいかに高いかの証左でもある。

 ところで,これまでの歴代壱万円札の裏面には雉や鳳凰などの鳥が描かれていた。おかげで,手に入れてもすぐに飛んで行ってしまったので,今度の壱万円札は羽根の生えていない生きものを描いてほしいですな…。(苦笑)

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