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セルフ雑記帳

和田 信治

vol.980『ドジャースの戦法』

エンタメ・スポーツ

2023-12-18

 1950年代,中日ドラゴンズの遊撃手としてプレーした牧野 茂は,その華麗な守備で54年のリーグ初優勝,日本一に貢献した。現役引退後,1961年から野球評論家として「デイリースポーツ」誌で健筆を振るっていた牧野のもとに,巨人・川上監督のマネージャーから電話がかってくる。「川上さんが会いたいと言っている」。

 川上哲治─戦時中から戦後において“打撃の神様”の異名を取ったスーパースター。この年から巨人の指揮を執っていた。牧野は川上監督1年目の巨人について,「野球は打つ,投げるだけではない。走るもあれば守りもある。ことに守りが重要だ。しかしいまの川上巨人の野球は,この守りがなっていない。こういうふうにしたらどうなのだろうか」などと遠慮なく書いていた。以前,ガソリンスタンドで川上とばったり会い,声をかけられたことはあったが,親密という間柄ではなかったから,きっと「なぜあんなに悪口ばかり書くんだ!」と叱られるのだろうと覚悟して出向くと,川上は「キミ,巨人へ来てくれないか」と─。

 牧野は仰天した。当時は,監督はもちろんコーチも,チームのOBが務めるのが常識だった。そこに外様の自分が入るなんて,と固辞したものの,川上は牧野の記事に立腹するどころかむしろ感服し,ぜひともその見識を巨人のために貸してほしいと熱心に要請し続け,牧野は1か月後にコーチ陣の仲間入りをする。その際,川上から一冊の本を手渡され,「これをチームに植えつけるのがキミの仕事だ」と言明される。本の題名は『ドジャースの戦法』。

 ブルックリン・ドジャースのトレーニングを長年担当してきたA・キャンパニスが著したこの本には,貧打のチームでありながら,守備を最大限に活かして守り勝つ野球でナ・リーグの覇権を争っていたドジャースの戦略・戦術が詳細に記されていた。攻撃では犠打やヒットエンドランを用いて得点を取り,守りではバント対策でシフトを敷く際,外野手もカバーに走るというような,いまでは当たり前の,しかし当時はまだ軽視されていたチームプレーを川上はいち早く導入しようとしたのだ。

 監督となった途端“守備の神様”に変身した川上に反発する選手は少なくなかった。その矢面に立ち,妥協せず徹底的に訓練・実行させたのが,『ドジャースの戦法』を暗記するまで読み込んだ牧野だった。その努力は,1965年から始まった,空前絶後の9連覇を成し遂げることによって結実する。牧野は1986年,56歳で世を去ったが,川上はV9の最大の功労者として長嶋でも王でもなく,牧野の名を挙げている。

 『ドジャースの戦法』は,その後の日本のプロ野球の“必勝法”となったが,あまりに組織化され,機動力を重視し過ぎるスタイルは,プレーヤー個人の力と力がぶつかり合うスポーツ本来の魅力を減じさせたとの指摘もある。事実,日本野球のお家芸は「スモールベースボール」と称されており,緻密さや効率性を謳っているように見えて,其の実,醍醐味の薄い,みみっちい野球だと揶揄しているようにも取れる。実際,V9のさなか,川上はずっと“巨人の野球はつまらない”という批判に悩まされ,70年にV6を達成した直後には,球団に辞意を伝えたと言われる。勝つために日夜心身をすり減らしている川上や牧野にとって“つまらない”などと言われるのは心外を通り越して屈辱であっただろう。

 大谷翔平がドジャースへの移籍を決断した理由が,史上最高額の契約金ではなく,むしろそのほとんどを後払いにしてでも“常勝軍団”であり続けてほしいとの願いによるものだったことに感動した。個人として2度目のMVPに輝いても満足せず,むしろ今年のWBCで実践したとおり,必要とあらばバントをしてでも「勝利」に貢献したいという姿こそ,まさしく『ドジャースの戦法』が求める理想像だ。一方,1987年からドジャースと業務提携を結んでいたせいでユニフォームが酷似していることから,レプリカ商品の売れ行きが好調だと無邪気に喜んでいる名古屋の2年連続最下位球団。OBの牧野が生きていたら,「いま一度,オーナー,監督から選手,職員に至るまで,全員『ドジャースの戦法』を勉強せい!」と叱責するに違いない。

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